狂言(Lunatic eyes)

狂気の境界。




狂っているのは、世界か俺か。


宇宙やその外側も含めた、絶対的な存在としての
全"世界"に対してなら、答えを出すまでも無い。
狂っているのは常に自分。
しかし、人は"真の世界"には永遠に到達できず、
"世界"は常に限られた特異空間。
誰にとっても、"世界"は、
見える範囲とそのちょっと先。
その限られた世界も、常に正しいのだろうか。
もしも正しくないこともあるのだとしたら、
狂気はどこから始まるのだろうか。


こんな体験は無いだろうか。
少人数(自分も含め4人くらい)でクイズ番組を見ているとする。
ある問題に対して、
「こんなの当たり前だよねー(笑)」
「3に決まってるジャン(笑)」
「ばっかじゃないの(苦笑)」
自分以外の3人の答えが一致し、
しかし、自分は確固とした理由があって1を選んだとする。
このとき、4人で構成された"世界"の中で、
正しいのは3人が選んだ答えで、
狂っているのは異端な自分だ。
ところが、CMあけの正解発表では1が正解。
自分のことを可哀想な目で見ていた3人は、
目を合わせてくれなくなる。
つまり、狂っていたのは"世界"の方で、
異端な自分の方が正しかったわけだ。
よって、次のことが成立する。


『限定された"世界"においては、
常に多数派が正しいとは限らない。』


では、何をもって正しさの秤とするのか。


正しいのは常に"真の世界"だ。
つまり、正しいかどうかを決めるのは数ではなく、
どちらがより真の世界に近いかどうか。


もののけ姫」をご存知だろうか。
僕はあの作品が宮崎作品のなかで一番好きだ。
「曇りなき眼で見定め、決める」
中でも、主人公の少年が言い放つこの言葉が好きだ。
神々とタタラ場の争いの中で、
絶対的な異端でありながら、
少年は自分を決して見失いはしなかった。
人と同じく苦悩し間違っている可能性を知りながら、
自分を否定しはしなかった。
そこらにいくらでもいるような安直に悩む安っぽいヒーローとは
根本的に違う。
結局誰が正しかったのかわからないまま映画は終わる。
少年が「曇りなき眼」を持っていたかどうかもわからない。
それでも、映画を見た誰もが
「アシタカかっこよす」と思わずにはいられないのだ。
イケメン補正を否定しはしないが、
「芯を持った強さ」に惹かれたのだと、僕は信じたい。


世界に人の意思が混じり始めたとき、
世界は少しずつ狂い始める。
狂気の境界はそこにある。
人は存在そのものが狂気なのだ。
人は生まれながらに狂っている。
五感を通してみた世界は、
幾重にも重なった色眼鏡とレンズで歪んでいる。
経験と先入観が世界を歪める。
しかし、レンズを取り払えるのは、
経験と思考だけなのだ。
「曇りなき眼」で「見定める」ことでしか、
世界は見えてこないのだ。


長いものに巻かれてはならない。
多に迎合するものは、須らく飲み込まれる。
考えるのをやめてはいけない。
思考を止めた瞬間に世界との乖離は指数的に増大する。
口を閉ざしてはいけない。
世界を捻じ曲げれるのは異端者だけだ。
孤立を恐れてはならない。
狂信者の輪に加わったところで、何が得られるというのか。
自分を信じなくてはならない。
自分を信じることすらできないものが、他人を信じることなどできはしない。


"世界"が狂っていると思ったならば、
狂人となれ。道化となれ。
正しいことはいつか証明される。
「それでも地球は回る」と言い張って殺されたガリレオとなれ。
先の先を行き過ぎて一笑に付された相対性理論となれ。
世界の歩みはもどかしい。
世界を追い越してしまったのなら、あの世で追いつくのを待てばいい。


盲目になるな。
自分の見た世界を信じろ。
狂った自分を否定するな。


というのに騙されそうになったあなたは、すでに盲目になりかけてますよ。
やばいです。